THE TURN OF THE SCREW
本日の作品は英文学というべきか、米文学というべきか…
THE TURN OF THE SCREW
です。
引っ張ってきているinstagramに書いてあることがそのままになってしまいそうですが、一応。
そもそもHenry Jamesさん、1843年にアメリカで生まれています。1876年にイギリスに定住し、その約40年後の1915年にイギリスに帰化、1916年に亡くなっています。(テニスンと時期が重なっていますねぇ…この頃の時代背景が気になるところです。)
そして去年は没後100年だったではないですか!Shakespeareの没後400年と夏目漱石の没後100年に気を取られ過ぎておりました。何をどうするわけでもないですが非常に悔やまれます。
テキストを見てみると、英文学史・米文学史ともにHenry Jamesについて取り上げています。
今回は取り上げてませんが、Daisy Miller(1878)を読んでみると、客観的かつ若干自虐気味に"アメリカ人"を捉え、表現していて、読み終えたときに私自身の持っている"アメリカ人"に対する固定観念やある種の偏見に気づかされることが多くありました。
どうするとこの短編の中にこれだけの要素を詰め込めるのだろうかと、尊敬の念しかありません。
個人的には、Henry Jamesは既存の英文学・米文学の枠に収めることができない作家であり、もう、Henry James枠が必要なのではないかと思います。
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さて、本題のTHE TURN OF THE SCREWですが、邦題は『ねじの回転』となっています。まぁ、そのままですよね。
余談ですが、screwは日本語では"ねじ(螺子)"で、くぎ(釘)は"nail","peg","pin" etc...となっています。ねじは螺旋状のギザギザがついていてドライバーなどで回転させて物を固定させ、一方くぎはハンマーで打ち付けて物を固定する感じですよね。
余談というか、どうでもいいというか、「そんなの知ってるわ!」と言われそうですが。(笑)
この題名は、作中に出てくる(結構はじめの方で)文から取られています。(どちらが先に浮かんだのでしょうか。)
何度かこの作品を読んでいるのですが、最初の感想は、「怖い」「意味わからない」「結局なにがどうなってるのだ」でした当時私、19歳(笑)
そして、ある社会経験を積んだ後に読んだ際に、少し違った感想を持ったので、そこを中心にお話ししたいと思います。
この作品は、ほとんどが主人公である"私"の語りで進んでいきます。そして、幽霊が出てきます。一応、幽霊とされています。
"私"はある日少年(マイルズ)と少女(フローラ)の伯父から、彼らの家庭教師(governess)を頼まれ、請け負い、そこからさまざまなことが起こっていき、最終的に少年(マイルズ)は家庭教師である"私"の中で息絶えます。
非常に面白いなぁ、と、そして効果的だなぁと思うのは、物語が全て"私"目線で描かれていること。そして、その"私"には名前すら与えられていないということ!(それっぽい文にしたかっただけ。)
そういった意味で、このお話しはとてつもなく主観的で、客観性に欠けているのです。非常に。それは、原書で読んだ方が顕著でした。読みながら、"私"の主観ばかりに少々うんざりしたくらいです。しかもこの"私"の独りよがりったら!(それっぽい…以下略)何かこう、わざとらしいのです。何かが。それを解き明かすにはあと何回読めばいいかしら。
これは文学作品なので、主観的でいいじゃないか、ともなると思うのですが、そもそもそこが、この主観性がこの作品のトリックなのではないかと思います。
そして、私個人としましては、結局このTHE TURN OF THE SCREWは、ただの幽霊話なのではなく、幽霊話と見せかけた「人間の恐ろしさ」を描いた作品なのではないかと思います。
「人間の恐ろしさ」と言っても、表面に出やすい恐ろしさではなく、どちらかというと内面にあって普段隠れている人間の恐ろしさです。
何かを強く思い込んだ時、またはそうなりやすい個人の性質、異質な・孤独な状況下での人の心理、そして自己顕示欲、承認欲求…そしてこれらの融合…
なんかこれを聞いただけでも怖くないですか?
自分はこれらの要素を抱えて、どれだけ今と同じままでいられるのだろうか…
これは、精神的な病を抱えた一人の女性のお話しなのではないでしょうか。
ただ、今では医学が発達して、さまざまな精神的な疾病が明らかにされ…というかさまざまな状況に病名がつけられるようになりましたが、当時はまだ今ほどではなかったのではないでしょうか。(ちゃんとした情報を集めていなくてすみません)
かの心理学で有名な精神科医フロイトが、まさにこの作品の前後の時代を生きた方ですし。
病名がついていないとすれば、「すこし特異な人」にしか映りません。そして、普通の(というと語弊があるかもしれませんが)人が少しずつ変化し、どこか狂気を帯びていく様を描くことで、読者に人間とはどのような生き物なのか、問いかけているようにも感じられます。
【あくまでも精神科に通院されているかたが「普通じゃない」とか「狂っている」と言いたい訳ではありませんので、その点はどうかご容赦ください。表現の幅が狭く、非常に申し訳なく思います。】
ですので、幽霊は幽霊であって幽霊ではないのです。幽霊とは所詮、「見える人と見えない人がいる」存在であり、見える人には現実であり真実ですし、見えない人には夢であり虚偽なのです。それが、幽霊が幽霊たる所以であり、この物語で暗躍(?)している理由でもあります。
見えている人には見えているのです。
"私"には見えるのです。
話がまとめられなくなってきました。
さて、作品の最後の方ではマイルズが"私"の腕の中で息絶えます。その場面は、John SteinbeckのOf Mice and Men(ハツカネズミと人間)に出てくるレニーを連想、見えない(はずのもの)を見て見えるという場面は魔女狩りを題材にした映画THE CRUCIBLEを連想しながら読みました。THE CRUCIBLEに関しては、若い女性の恋心とそれに係る情熱が暴走した結果思わぬ事態を引きおこしてしまうという点でも共通点があるように思います。
非常に頭を使う内容ではありますが、なぜが病みつきになる作品です。
文才がなく無駄に長くなってしまいました。
今日はこの辺でお開きにします。
↓上でも触れたDAISY MILLERも一緒に読めます。
Penguin English Library Daisy Miller and the Turn of the Screw (The Penguin English Library)
このPenguinの装丁好きだなぁ。。